神原良WEB詩集掲示板

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第10詩集「夜の北緯」を読む 白樺英樹

2021/08/24 (Tue) 00:53:05

2018年の第9詩集「星の駅」のあと神原良の詩はどうなっていくのかと気になっていた。それは多分に、コロナのせいもある。2019年末から発生したコロナウイルスパンデミックは今なお出口が見えない現在進行形の世界史的な事件となっていて、これがあらゆる人間の営みに影響を及ぼしている。勿論詩芸術の世界も例外でない。停滞もやむを得ない・・・などと思っていたからである。そうした時に、第10詩集が出された。嬉しい便りであった。神原良詩集を第1詩集から愛読している私にとっては、いつしか神原良という詩(あるいは詩人が)リアリティを持って私の心に住み込んでしまっているようなのだ、うまく言えないが詩人像のひとつの典型としてなのかもしれない。
 さて、今回第10詩集で、私が感じた二つの印象を述べてみたい。
一つは、今回全16編を3つの詩群にわけて配した、最も多い中間の9つの詩の見事な集大成についてである。まず詩の題をあげると、オタモイ幻想/オスロからの手紙/札幌の街を歩いていて/函館、風のソネット/木道の果てに/幣舞橋で/釧路湿原/風連湖畔に立つ/泣かないのか、鎌倉の春のために、の9編なのだが、最後を除いて北方を舞台にしている。北方は詩人の現実的な故郷かもしれないし、形而上の故郷ともなっているかもしれない。いずれにしても、青春時代の郷愁、抒情性、そしてさまざまな暗示が秘められていて、そのどれもが絵の一シ-ンやショートフィルムにもなるような美しさと物語を持っているのだ。そして、ほとんどすべての詩に、君が出てきて、君と白い指を重ねた思い出があらわれて、いつしか別れがあって、しかし今尚かつての思い出の地で偶然の再会を期待してるという心象風景を今なおみずみずしくうたい上げていることに驚かされる。とても羨ましく思う。おそらく誰でもそういう思いもあると思うのだが、そのことをてらうことなく書いてくれる詩人はそういないのではないか。励まされもし、感謝したい。
そしてもう一つは、神原良の新たな変化を感じる点である。それは、初めの詩群4編と最後の詩群3編に感じる。この点は、また長くなるので投稿をあらためたい。

第9詩集「星の駅」に寄せて 白樺英樹

2018/05/23 (Wed) 18:30:30

第9詩集「星の駅」を読んだ。星の駅・・・何とスケールの大きいファンタスティックな名前だろう。星の駅というからには当然地上ではなく宇宙空間に存在するのだろう。何気なく検索していたら同じ「星の駅」という名前を二つ見つけた。神戸の六甲山地の中心、摩耶山頂上にあるロープウェイの駅の名前がひとつ。頂上からの星空の眺めは見事らしいが、日本三大夜景の眺めの方が有名のようだ。もう一つは、日本一星がきれいに観測できるといわれている長野県下伊那郡阿智村で進められている星の駅構想である。ここは文字通り地上から静止して見上げる星の駅にはふさわしいのかもしれない。もしかしたらそんな場所でずっと過ごしていたら、神原良のこの詩を理解できるかもしれない。・・・などと想像しながら読んでいたら、鈴木比佐雄氏の解説を読んで、正直参ったと感じた。そしてなるほどその通りなのかもしれぬと思った。いままで宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を下敷きにして神原良の詩を読むという方法は思いついていなかった。これは、私が無知と言うほかはなくここにきてたいへん勉強になった。氏はそれだけでなく神原良の存在論的な詩的世界とも.指摘している。この点は私も大いに納得している。私は次の投稿の機会に存在論的な解釈を試みてみたいと思っている。そういう意味でこの第9詩集は詩人の全体を問うかのような詩編であることに気づく。あたかも第9交響曲のように。
 しかし神原良は徹底してどこまでも表現者だ。意味を語ることがない。が故に私にとって依然として難解な詩人であることに変わりはない。

新年ごあいさつ - Web Master

2018/01/03 (Wed) 14:09:33

 原作者神原良より皆様へ新年のご挨拶が届きました。

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 新年おめでとうございます。

 いつも神原良WEB詩集をご覧頂きありがとうございます。
今年も皆様にとりまして素晴らしい一年となりますようお祈りいたします。

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 昨年より準備が進められております新詩集 『神原良SF詩集(仮題)』が
今春発行の見込となりました。管理人の私も一人の愛読者として新詩集の
発行を心待ちにしております。

今年も神原良の世界をご堪能頂ければ幸いです。

画像診断 - 札幌love

2017/08/12 (Sat) 00:35:45

前作、『札幌の街を歩いていて』の最初の画像[顔写真を三つ並べたやつ]を見て、札幌・K氏のテンションがずいぶん下がってるなと思いました。今度は・・『春立の海で別れて』・・いいですねぇ、オジサンの胸がキュンキュンします。

事情 - 匿名

2017/06/10 (Sat) 08:38:47

この詩の初出は30前後。まさに死に瀕していた頃。背景の街は「書き割り」。光も風も匂わない世界。存在はほとんど遊体となってその街を浮遊している。さっぽろという言葉自体、過去の、かすかな記憶の符牒に過ぎない。ただ「梗概」だけで書かれた作品。その15年後、自死した友人が、直前に送ってきた<札幌風景>もコレだった・・・こういう詩人/狂人紙一重の世界を、所詮平凡な健康人に過ぎない読者に「解れ」とは言わないけれど・・・・・
<永遠の故郷>氏の評論、書いている事は全て正論。ただし、凡庸。自分では全くピアノを弾けない音楽評論家が、ピアニストを酷評するのに似ている。

札幌の街を歩いていて、について - 永遠の故郷

2017/06/08 (Thu) 12:18:08

①札幌の街に関する描写が圧倒的に少なすぎる。季節はいつ?空気はどんな匂い?目に入ってくる景色の描写は?「君」はどんな格好をしていたの?そして「僕」は?手をつないだ時の体温は?歩いていたのはゆっくりと?あるいは?札幌ってどんな街なの?何時ころなの?寒いの?暖かいの?街ではどんな音がしていたの?あるいは音はなかったの?せっかく「札幌」を出してきているのに、それが生きていない。
②精神的な拠り所であり、永遠の故郷であるとしたら、「札幌」をテーマに、どんどん制作したほうがいいと思う。(例えば吉田秀和は、土地土地のエピソードや音楽の旅、永遠の故郷という本も出しているので参考になるかも。)
③「時は戻り」の、タイムスリップする情景については、もっとドラマティックな展開が欲しい。「永遠の並木道」だが、「永遠の」と、まんま、書いてしまうよりは、永遠性を持っている何がしかの、説明や描写があった方が、より永劫性のある時間の感覚が深くまた、豊かに読者の心に訴えかけるだろう。

個々人の作家につき - 現代SF観光局

2016/09/29 (Thu) 06:46:55

伊藤計測、円城搭、あたりの作家は(惜しくも、伊藤計測は若くして、亡くなっているが)はずせない作家であろう。)押さえていて然るべし。同年に二人は、ハヤカワSFコンテストに応募しており、その年は相当にレベルの高いバトルを予想されていたが、結果は、受賞作なし。亡き伊藤のあとを引き継ぐ形で、円城搭が加筆し手をいれた作品も、出版されている。2000年~2010年代を予測するに、これらの作家は読むに値し、時代精神をも反映した素晴らしい作品群となっている。

読んでおくべき書籍につき - 現代SF観光局

2016/09/29 (Thu) 06:35:42

ごく最近、河出書房新社から出版された、大森望氏の、「現代SF観光局」"The History of Science Fiction"はぜひ、読まれたし。割に狭い世界の中で創作をしているように見える、詩人が、インスピレーションを得るには、恰好の一冊。ちなみに、筆者は大森望氏とは以前より面識があるが、日本ならず世界のSFについての彼の知識と情報量は半端ではない。また、SFのみならず、他の多くの文学賞についても、言及がなされており、今後は、「新旧ハヤカワSFコンテスト総解説」出版の予定。

オタモイ海岸 - しもじょう

2016/05/27 (Fri) 10:01:16

オタモイ海岸かあるいはまだ人類が誕生していない地球なのか、本のカバーの装画にこの詩集のすべて語られているかのようです。「恋」と「愛」の話を楽しく読ませてもらいました。時間の「流れ」を見つめ続けている作者の「前世紀に出会った時と少しも変わっていない」との一行、さすがです。
「回復」から「再生」へとむかうこの後が楽しみです。

私もオタモイに行ってみたい 白樺 英樹

2016/05/02 (Mon) 07:16:17

オタモイに 君は 還ってきた・・・
冒頭のこの一行を見て、隠されていた詩人の謎がまた解き明かされるかもしれないというスリリングな思いで神原良の第8詩集「オタモイ海岸」を読んだ。2013年以降、毎年1冊詩集を刊行しているのは、詩人の中で何かがおきているのではないかと思うほどだ。ただ、この第8詩集は、第7詩集もそうであったが、新たな書き下ろしというよりは以前から抱えているテーマを、それまでの自作詩のいくつかを利用して新たに再構築しているようだ。あたかもショスタコービッチが、ロシアにおける1905年や1917年を何度も繰り返し作曲している行為に似ている。恰も作者にとってはそのテーマ以外のテーマはないかのようだ。むろんテーマは時代とともに年齢とともに変容してくることがあってもいいと思うのだが、今のところ大きな変容はないとの印象であった。


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